銀座四丁目交差点 1880年頃
Ginza’s Bricktown, 1880

2020年6月リリース
絵柄サイズ:24.2×80.3cm キャンバス・ジクレー 限定195枚

“銀ぶら”という言葉が生まれたのは、大正初期のことだそうで・・・
大正浪漫の頃の銀座の姿に、思いを馳せることがある。
明治・大正期に描かれた、銀座の”煉瓦街”の浮世絵を見た時から、
建築様式にとらわれない、なんとも不思議な魅力ある街並みに
見てみたい、知りたいという興味と共に、ずっと惹き付けられてきた。

*   *   *

明治五年(1872)、銀座の街は大火災で焼失。
その後、”不燃の”街並みにすべく、英国人建築家の設計で、
道路・ガス灯・街路樹などと共に整備され、
煉瓦と漆喰建材を中心に再建されたのが、銀座”煉瓦街”。
文明開化の波と共にもたらされた、西欧風の商売や外国からの品々・・・
人々は物見遊山がてらの買物も楽しんだ。
すると、最新の物事に敏感なジャーナリストたちも集まり始め、
新聞社、雑誌社、広告会社、印刷所等も多く居を構えたそう。
つまり、江戸商家並ぶ通りから、現在の銀座へと繋がる、
最先端のモノ・人が集まる華やかな地へと変貌したのがこの時期だった。

*   *   *

当時の写真を探してみたけれど、なかなか見つけられず・・・
タイムマシンに乗って訪ねる気分で、
実際にココへ行った感覚を味わってみたかった。
今の銀座だけではなく、「こんな時代があったのか!」と、
観る方々にも、面白がって、楽しんでもらえないかと――
自分なりに描く意義を感じて、チャレンジした
100年以上も前の、旧き良き銀座の姿。

残念ながら、「煉瓦街」の姿は、大正十二年(1923)の関東大震災でほぼ全滅し、
その後も、復興と戦禍、更なる復興と・・・
時代と災害の大波を受けても、その度に力強く発展しつつ、今も毅然と在り続ける。
日本と日本人の、不屈の底力に頭が下がる思いです。

笹倉 鉄平


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