北京での展覧会

先日、ある朗報がオフィスの方へ届きました。
中国の首都・北京にある国立中国美術館から、展覧会開催の正式な使用許可がおりたのです。

それは、日中のより深い友好を目指して、友人の画家の劉(リュウ)さんと二人で展覧会(いわゆる”二人展”)を出来ないものかと、1年以上前から美術館の方へ申請を出していた件への返事でした。
この中国美術館は、無論、国立なわけですから、展覧会を開きたいと思い立った後が、想像以上に難しいことでした。

申請と共に、数多くの絵や経歴の資料を作成して提出し、中国美術家協会の代表者10名に及ぶ方々の審査を全てパスして、やっと決まるのだということでした。
今までに、日本人としては、かの加山又造画伯ともう一名しか、ここでの展覧会は実現していないとのこと。
また、昨今の情勢もあって、かなり難しいのだろうと、期待も消えかけていたところでしたので、この幸運に素直に喜んでおります。
これも全て、劉さんご本人と、北京にいらっしゃる彼を通じて知り合った多くの方々の、ご協力と後押しがあっての賜物と感謝せずにはおれません。

展覧会場となる中国美術館

さて、今更になってしまいましたが、ここで友人である画家、劉長順(リュウ・チョウジュン)さんを簡単にご紹介させて頂きます。
彼は、1955年に中国の大連に生まれ、その後、北京の中央美術院(聞けば、入学倍率は100倍以上にも及ぶ、日本で言うならば”東京芸大”の様な存在)を卒業されました。
そして、北京中央電視台(国営テレビ局)でのご活躍を経て、日本へ留学をなさり、日本画を学ばれた後、日本へ帰化され、現在は日本画の技法で世界遺産などの美しい風景を描き出す画家としてご活躍されています。
以前、美術出版の関係の方からのご紹介で知り合い、その真面目そうな風貌や経歴からは想像出来ない朗らかなお人柄で、意気投合して今回の運びとなりました。

そんな劉さんと、2004年のサッカー・アジア杯が中国で開催されたていた頃、対日本戦での中国のサポーター達の加熱気味の反応を見て、中国と日本の間には、まだまだお互いに誤解している部分が多くあることを話しました。
またその後も、中国の一部の都市で一連の日本バッシング事件が起こった時、”ああした暴走気味の行為を起こす人は、ほんの僅かなパーセンテージの人であるにも関わらず、報道の映像だけ見ていると、とても多くの人がそうなのかと思ってしまうが、単純に日本の10倍以上の人口を有する中国では、ほんの一握りの人であっても、それが大勢(たいせい)だと思われてしまう・・・とても辛いことですね”というような話になったりもしました。

私たちは、ニュース報道からでしか知り得ない情報(特に海外でのニュースは、事件性を帯びているものが中心にならざるを得ないわけですから、ある意味極端な内容が多くなってしまうのは仕方がないのですが・・・)だけを過信して、その国の人々のイメージを作り上げてしまいがちです。
そして、逆に我々日本人にも、外国の人は、そういった特異な情報やひどい時には情報など入らず風説だけを頼りに、片寄ったイメージを持ってしまったりもするわけです。何だか、双方向にやりきれない感じがします。

最近、巷で「NO BORDER」という言葉をよく耳にします。
スポーツや音楽、芸術などの世界は、典型的な”境界の無い、境界を超えられる”フィールドであり、人間の本能的・感覚的な部分で、分かち合い、つながりあえるものを内包した世界だと思います。
つまり、正にアーティストが社会活動を行う為にうってつけの場所であると、私も、劉さんも、そう考えているのです。

中国を故郷に持ちながら日本画で活躍する劉さんと、日本人でありながら、洋画でヨーロッパや日本の風景画を描く自分と――そんな、ある意味ボーダーレス感覚の二人が、中国で展覧会が出来たら素晴らしいね、と話していた事が発端となり、「中国も日本もなく、ただの”人間”として手を取り合って事を成す」という思いで、二人が一緒に展覧会を開催することこそが、今回何よりも嬉しいことであり、意義あることなのではないかと思っています。

ですから、私の方は、今回お世話になる中国への感謝をこめて、北京の風景画を1点は必ず描こうと思っていますが、他の出展作は、ほとんどはこれまでに描いてきた、世界各国の人々の平和な日常を織り交ぜながら描いた情景と日本の情景といった、お馴染みの作品たちになる予定です。

劉さんと、万里の長城にて

中国人でも、日本人でも、世界中どこの人とでも、対個人としておつきあいをすれば、皆同じ人間なのですから、誤解無く素晴らしい関係を築くことが出来ると、私は信じています。

無意識のうちに、ついステレオタイプの色眼鏡で外国の人を見てしまうのは、本当によくないことだなぁと反省することも、ままあります。例えば・・・几帳面ではないおおらかなドイツ人もいますし、逆に繊細で緻密なブラジル人だっていることでしょう、リズムにいまひとつノレないアフリカ人だって、女性に声をかけられない内気なイタリア男性だっているはずです。
そんな具合に、”日本人”を簡単な一言のイメージで言い表すことが出来るでしょうか? 我々、日本人自身にはきっと出来ないでしょう・・・身近でよく知っているからこそ、殊更出来ないものなのです。

固定的な印象にあてはめることは、相手を知っていけば、知っていくほど、難しいことに気付きますし、そこに思い違いや誤解などが入り込む隙間は、どんどん少なくなってゆくのではないでしょうか。

良い面、悪い面も含めて、”互いを知る”ことこそが、友好や平和の第一歩であるならば、文化交流もひとつのきっかけになり得るかもしれません。
絵画という、理屈ではなく心で感じるものを通して、”世界のどこでも、人間の本来の姿は大きく違いはしないのだから、繋がりあえる”と、伝えることが出来ればいいなと思います。

それぞれの国の、我々普通の人ひとりひとりの和が少しづつでも広がってゆけば、きっと大きな力となり良い方向へと動き出すことも、いつか可能となるでしょう。
あまりにも微力だと自身でも解っていますが、そんなことを夢に据えた今回の”北京での二人展”を是非とも成功させたいと願って、この秋の本番まで頑張ってゆきたいです。

このページの2004.11.29.掲載「北京最新美術事情(?)」にも、関連した話が書いてあります。
ご興味のある方は、こちらも併せてご覧下さい。

笹倉 鉄平

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